「あ…こんにちは」
俺は仲村慶の母親に会釈した。
彼女は俺のひどく汚れた姿には全く触れることなく、
「どうにかしてもらえないかしら!」
ときつい口調で一言言った。
俺が何か言おうとすると、
「もう…昨日からずっとこの状態よ!
 ほんとに迷惑なのよ!!」
彼女はヒステリックに叫んだ。
「母さん…やめてよ…」
後ろから母の服を引っ張ったのは仲村慶だった。
「慶、あなたは黙ってなさい!」
彼女は息子に視線を移しピシャッと言うと、
また俺の方を向いた。
「みんなこれあなたのお父さんのせいでしょ?
 なのに奥さんまで黙ってどっかに行っちゃって。
 このマンションの人たちに謝罪の言葉すらないって
 どういうつもりなのよ!」
「すいません…」
俺はひたすら頭を下げた。
「あと…あなた…落第したそうね
彼女は軽蔑するような目で俺を見た。
「もうウチの子と関わるのはやめてくださるかしら。
 慶は今年6年生に飛び級したので受験に忙しいの」
「はい…」
「あなたたちのせいで慶が受験に失敗したら
 どうしてくれるの?」
「…」
「私が何を言おうとしてるのかあなたなら分かるわよね?」
暗にこのマンションから出て行けということなのだろう。
「本当に…すいません…」
俺は深々と頭を下げてやっと自分の家に戻れた。
重い玄関ドアを閉めると途端に涙が溢れ出してきた。
俺はドアにもたれかかったまま子供のようにワンワン泣いた。

「拓海…池山さんたちよ」
福田拓海の母は、
ベッドに寝転んでぼーっと天井を見上げている福田を呼んだ。
「池山…!?」
彼とは昨年度まで通っていた東石塚商業高校の野球部で
一緒に白球を追った仲だった。
「ごめん…今はちょっと会いたくない…」
福田は母に伝言を頼んだ。
「そう…」
母は残念そうに一言言って出て行ったが、またすぐ戻ってきた。
「どうしても会いたいそうよ」
「…」
福田は仕方ないといった顔で無言で頷いた。
しばらくしてドタバタと玄関先から福田の部屋まで
複数の足音が響き、ドアが勢いよくガチャリと開けられた。
「よう!悠人!」
池山の屈託のない笑顔がそこにあった。
池山の後ろには同じく野球部の酒井と水谷がいた。
「あぁ」
福田はベッドの上に起き上がると元気なく手を上げた。
「何だよ!辛気臭い顔して」
池山が福田の背中をぽんと叩いた。
「俺たちの方が慰めてもらおうと思って来たのにな」
背の高い水谷が言う。
「何かあったの?」
福田が言うと
「何かあったのじゃねーよ。今日試合だったんだよ!」
酒井が不満そうな顔をした。
「あ!」
福田は思い出した。
今日から甲子園の県予選が始まっていたのだった。
「慰めて…っていうことは…」
福田がおずおず訊ねると、
「負けた。初戦敗退」
池山がポツリと言った。
「そっか…終わっちゃったな…」
福田は俯いた。
「やっぱお前の抜けた穴は大きかったよ。
 何とか埋めようと必死になってやってみたけどさ」
酒井はそう言うと泣き出した。
「ごめん…」
福田は酒井の肩に手をかけた。
「悠人が謝ることじゃないよ。
 悠人がいなきゃ何にもできなかった俺たちが悪いんだ」
池山が首を横に振った。
「いや、俺だって皆にはずっと助けてもらってた」
福田が言った。
「やっぱり…まだ…治んねーのか?」
水谷が心配そうに聞いた。
「うん。残念ながら」
福田は少し寂しそうな顔で言った。
この3人は福田の夜尿症のことを知っていた。
彼らは野球部の合宿の際、
いつも福田のことを気にかけてくれていたのだった。
福田がオムツ着用を忘れて合宿中に失敗したときも、
嫌な顔一つしないでオネショの後始末を手伝ってくれた。
「ごめんよ。俺がこんなことにならなけりゃ…」
福田は溜息交じりで言った。
「でも…何でたかがオネショくらいで落第させるんだろうな…
 お前みたいにオネショしたって立派なヤツはたくさんいるし
 オネショしなくたって最低なヤツもいっぱいいるじゃないか」
酒井の声は未だ涙声だった。
「俺たち…もうこれで終わっちゃったけど
 また絶対どこかで一緒に野球やろうな!」
池山が福田の肩をポンと叩いた。
その笑顔は福田の荒みそうだった心を幾分ほぐしていた。
「うん。ありがとう!
 皆とまた一緒に野球がしたいよ。俺」
福田は強く頷いた。
その後福田とその友人は夜まで思い出話に花を咲かせた。

「!」
俺はケツの辺りが濡れてるのに気づいて目が覚めた。
外は既に真っ暗で、月明かりが窓の辺りを照らしていた。
どうやら俺は玄関先で眠ってしまったらしい。
そしてケツが濡れているということは…
俺は立ち上がると玄関の照明をつけた。
学生服の股間からぽたぽたと小便の雫が垂れた。
その雫は玄関先に広がる水溜りに落ちピチャッと音を立てた。
俺は濡れた革靴を脱ぐとそのままがに股で風呂場に直行する。
情けなかった。
こんな状態でも俺のオネショだけは絶好調なんだな…
シャワーを浴び、スウェットに着替え、
玄関先を掃除し終えた頃にはもう夜8時を回っていた。
窓から外を見ると未だにマスコミの車や人だかりが見える。
身体のあちこちがまだ痛む。
足や胸に結構あざもできていた。
お腹がぐうっと鳴った。そういえば朝から何も食べてなかったな…
俺は今日一日のことを思い出していた。
暴力、痛み、空腹、嘲笑、罵倒…
そして一向に治らない週5回のオネショ…
「もう…何もかも嫌だ…」
俺は何も持たないで外に出た。
夏前のじめっとした空気が不快だ。
エレベーターに乗り、屋上へと向かう。
18階の屋上から見る街の景色を俺は久しぶりに見た。
それはきらきら輝いてて、今の薄汚れた俺とは対照的だった。
「福田…ごめんよ…」
『殺してくれないか?』と言った福田を今朝俺は叩いた。
その俺が…今…自分に負けようとしている。
俺は手すりを飛び越え反対側に降り立った。
ずっと下に小さな車が規則正しく進んでゆくのが見えた。
生ぬるい風が頬を撫でていく。
「次生まれ変わるなら…やっぱり…鳥がいいな…」
俺は視線の先を優雅に飛ぶ鳥の群れを見つめて言った。
そして俺もこのままどこか飛んで行けそうな気がした。
「父さん…母さん…福田…みんな…ごめん」
俺はそう呟くとそのまま身体を空に放り投げた。